方言の定義、方言研究
どうして方言があるの?
方言の成立の理由は、大きく分けて2つのことが考えられます。
まず、都(または、その地域の文化の中心地など)で生まれた新しい言葉が地方に広まっていき、都ではその語がなくなったにも関わらず地方に生き残ったという場合です。
昔は交通の便が今のように良くはありませんでした。また、現在のように移動が自由ではなかった点も重要です。
このように広がった言葉の伝播の一つの形は、水面に投げ入れた石と波紋の関係に似ています。
都で新しい語が出来た場合、年間約600メートルから1キロほどの速度で周辺部に伝播していきます。
とすると、京都から300キロ離れたところに伝わるまで300~500年かかることになります。もちろん、そうしている間に都では新しい言葉が生まれますから、都を中心に同心円状に方言が残ることになるわけです。例えば、鹿児島と青森に同じ語が分布する、という例もあります。
このように古い言葉が残っている例として琉球方言などがあげられます。
また、かつては今のように交通の便が良くないため、それぞれの地域が一つの「くに」であった点も重要です。それぞれの土地で独自に便利な言葉、おもしろい言葉が生み出されました。
外からの新しい情報が入りにくい状況で、例えば誰かがおもしろい言い方や便利な言い方をつくりあげた場合、その言葉はその地域の中だけに広まって、結果として隣の「くに」とは異なる言葉が存在することもあるわけです。今でも流行語が生まれていきますが、現在のようにテレビやラジオのない時代、ごく限られた範囲にだけ通用する言葉になることは十分あり得るわけです。
この2つが方言の成立の要因になったと思われます。他にも、他国の人間や隠密を発見しやすくするために難解な言葉を作り上げた、という説もあるようですが、定かではありません。
ただ、方言が発生した理由は様々な要因が複合的にからみあっているものですので、なかなか一言では言いにくものなのです。 未だに大きな謎なのかもしれません。
そもそも、方言って何?
よくこんなことを言います。
「広島では”だから”のことを”じゃけん”と言う。」
こういうとき、「じゃけん」を広島の方言と呼ぶのが普通でしょう。
ところが、言語学の世界では「方言」という語をもっと広い意味で使います。ある地域に特徴的な言葉というだけではなく、ある地域で話されているすべての言葉、というのが言語学でいう「方言」なのです。
例えば、広島市で使われている言葉はすべて「広島市方言」となって、「じゃけん」のような言葉から、「テレビ」「携帯電話」という言葉まですべて「広島市の方言」。
ちょっと違うでしょう?
では、「じゃけん」のようにある地域に特徴的な言葉は何と呼ぶのか?
一般に方言と呼ばれているこのような語を特に「俚言(りげん)」と呼んでいます。
また、日本では盛んではありませんが、同じ地域でも話し手の社会的階層によって言葉が違うのが英語の世界。
あのシャーロックホームズも、見知らぬ人が話す英語を聞いてその人の出身階層を見事に当てた、とか。
これもやっぱり方言と呼んでいます。「貴族階級の方言」などのように。
つまり、言語学の世界では、ある地域で話されている言葉を「地域方言(地域言語)-local dialect-」、ある階層の人に話されている言葉を「社会方言-social dialect-」と呼び、この両者を「方言-dialect-」と考えるのです。
方言研究って、何をしているの?
私はよく方言調査に出かけます。そこで出会った人に方言の研究をしているというと、具体的にどんなことをしているのか不思議がられることがあります。
ことばは生きています。時代によって動いてゆくものです。それは一方で宿命のようなものですが、一方で消えてゆくものが惜しいとも思います。
一つは、やはり消えてゆくものを記録するということがあります。語彙、音声、アクセント、すべてです。
そして、これは私個人の願いですが、方言という、私たちが普段使っていることばの中から、人間と言葉の関係を見てゆきたいと考えています。
ちょっと話が横にそれました。
方言を見ていくとき、まずアクセントの問題があります。関西のアクセントは関西や四国以外の人には特徴的に感じられますね。どんなアクセントなのかという調査。
次に、語彙。どんな語を使うのか、さらに、沖縄の「雪」を表す語彙と、山陰のそれとでは語数や呼び分けの細かさにおいて、かなり違いがあるのです。
それから文法。九州の一部では可能表現にいくつかバリエーションがあって、「見ラン」「見レン」「見レレン」がそれぞれ違う意味を持っています。暗いから見ることが出来ないのか、見たくないのか、出来ないことの理由で使い分けます。動詞の活用の問題もあります。
ちょっと学生時代を思い出して...
「見る」の未然形は「み」でしたね。あれ? 九州方言の一部では未然形が「見ら」なのです。上一段活用が五段活用になっているのです。こういう問題もあります。
あとは表現。物を尋ねる表現や、あいさつなど。
こんなところに注目しながら、言語地図(方言分布の地図)を書いたり、ある一地点の報告をしたり、あるいは数地点の比較をしながら、変化を観察して日本語の歴史を考えたり、将来を見通したり、あるいは、生活と言葉の関係を考えたりしています。
でも、基本は「人」。「人」に出会うことそのものが、ことば以上の「何か」をもたらしてくれます。
共通語と標準語の違い
共通語ということもあります。標準語ということもあります。 どちらが本当なのでしょうか?
「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標準語は人為的に作られるものである。」
『国語学大事典』の説明はこのように始まっています。
教科書などでは「共通語」となっています。「標準」という言葉の持つ「統制」「強制」という響きが嫌われたのでしょうか。真田信治先生はこのように主張しています。
さらに、日常生活で私たちが「全国どこでも通じる言葉」をどうやって習得したのかを考えると、正しい物を覚えていった、というよりも、人との接触やマスメディアを通じて自然に習得した、という感じなので、「人為的」ではなく「自然の状態」というほうが当たっているようです。
というわけで、通常私は「共通語」と呼んでいます。
国語辞典も各社採用している語が若干違いますし、「標準語一覧」のようなきちんとしたものが存在しているわけでもないので「共通語」。
ちなみに、共通語は「全国どこでも通用する(通用するであろう)ことば」と考えます。
それに対して、和歌山県の一部で改まった場面で大阪方言のような言葉が使われることがあるという報告があります(真田信治先生)。こういう場合、大阪方言がこの土地の人にとって規範と考えられているわけで、これを「地域共通語」と呼んでいます。
地域の方言の中に、古い時代に使われていた語(古語)が残り、使われていることがあります。
例えば、広島でいえば「よー ~せん」という言い方などです。この「よー ~せん」は不可能を表す表現で、平安時代の「え ~打消」という不可能表現です。
東北などで聞かれる「べー」も、古典に出てくる助動詞「べし」。 古語の「べし」は大学入試によく出る助動詞ですが、「推量・意志・可能・当然・命令・適当」などの意味があります。現代語の場合、ほとんどが「当然」の意味で使われています。 しかし、東北方言の「べー」は、「べし」の古い意味を残しており、例えば意志の意味にも使われます。
このように、方言には過去中央で使われていたと思われる語が多く残っていることが多く、この意味でも、貴重な文化遺産といえるでしょう。